PTの開業は儲かりません。
PTは開業できます、というあたりまえのことをまとめた
を書きましたが、開業できるからといってラクして儲けられると主張しているわけではありません。
ラクに稼ぎたいなら、開業は向きません。
開業すれば1000万でも1億でも稼ぐことができますが、同時に1000万や1億の借金を負う可能性もあります。
お金を稼ぐということだけを考えれば、このご時勢に安定した収入が確保されている病院や施設勤務で出世を目指すほうがよほど合理的な考えです。
開業はグレーではない
問題を整理しますと、PTの開業それ自体は違法でもなんでもありません。人は自由に職業を選ぶことができるという、それだけのことです。
だが、開業は甘くない
町を歩けば1分に1件の治療院がみつかるこのご時勢に看板を上げただけでお客さんが殺到することはありえません。理学療法士としての知識とキャリアがあれば、全くの素人が開業するよりは多少はアドバンテージがあるかもしれませんが、やはり経営の苦労はつきものです。バブルのころならばいざ知らず、このご時勢に「○○しさえすれば簡単に年収○千万」のような甘い話はそうそう転がっていません。PTの開業でも事情は同じです。
違法だから開業してはいけないのではなく、開業は大変だから、よく考えてほしいと思っています。
それでも開業する理由
理学療法士の開業に金銭的なメリットはさほどありません。福利厚生など考えれば病院や施設勤務の理学療法士のほうがよほど恵まれています。
その現状で、私があえて開業を選択肢の一つに加えてほしいと主張する理由はたったひとつ、様々な患者様のニーズに答えるためです。
病院や施設勤務PTのすばらしさ
もちろん大前提として、病院や施設勤務のPTの仕事は無くてはならない価値の高い仕事です。日々病院や施設でクオリティの高いリハビリを提供している理学療法士がいることで国民全体の健康が支えられています。
開業リハも選択肢の一つに
病院や施設勤務のPTが保険の範囲内でクオリティの高いリハビリを提供しているなら、わざわざ開業する必要などないのではないか、
逆に、わざわざ開業するということは、保険の範囲内でのリハビリを否定しているのではないか、と思われる方もいるかもしれません。
でも、
保険内リハVS自費リハ
の対立構造ではありません。
私はどちらがすばらしいとか価値があるという争いをしたいわけではなく、どちらも価値があり対立するものではないと思っています。
保険も自費も、本人が選べる社会に
あたりまえすぎることですが、病気になっても障碍があっても、選択の自由は保障されています。どんな人でも自由に自分のやりたいことを選ぶことができるのが本来の社会のありかたです。
日本は民主国家である以上、政治家や医者や官僚などのエライ人が国民の自由を制限することはあってはなりません。
病気になったら厚労省のいいなり??
病気になったら厚労省の決めた保険の範囲でのリハビリしか受けることができない、という社会は、病気の人が自由にリハビリを選ぶ権利を厚労省が制限している社会です。
もしも保険範囲内のリハビリしか選択できない社会になってしまえば、厚労省が国民の自由を左右する「厚労省ファシズム(?)」とでも言うべき非常に困った現象が起きることになります。*1
決めるのは本人であって医療者ではない
繰り返しますが、保険の範囲、あるいは、医者が認める範囲のリハビリは沢山の方が実証を積み上げてきた価値の高いものです。
ですが、それ以外のリハビリや民間療法など様々な選択肢の中から自分にとってどれが一番必要か選ぶのは患者様ご本人です。我々医療者は情報を提供することはできても選択を強要することはできません。
私は、病気になったというそれだけの理由で国や医者の決めた治療法だけしか選べない社会を窮屈に思います。
国や医者の選んだ治療法はおそらく効果が高く確実で安全なものでしょう。それを選ぶのもすばらしい選択です。ですが、それ以外のものを選ぶ自由もあっていいのではないでしょうか。
終わりに、なぜ開業を目指すか
私は、病院や施設、保険と言う枠では答えられないニーズがあり、それに答えるために開業という選択肢を選ぶ理学療法士も必要であると考えています。
この文章は
藤田が書きました。
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医療選択の自由を考える会では月に一度交流会を開いています。
会に賛同する・しないに関わらず意見交換する場です。お気軽にご参加ください。
処方箋なしPTが違法である問題について
処方箋なしの理学療法が違法だという見解について、情報が随分と錯綜している様子なのでまとめてみます。
あまりにも誤解をまねくような情報ばかり広まるようであれば弁護士を招いての勉強会なども考えていきたいと考えています。
はじめに、結論
人体に害のない医療類似行為は禁止処罰の対象ではありません。
つまり、まっとうな整体をしていて捕まることはありません。
法解釈について異論のある方は「人体に害のない施術をおこなって有罪判決を受けた事例」を提示してください。
法律と判例
あはき法第12条では
医業類似行為について、何人も、第一条に掲げるものを除く外、医業類似行為を業としてはならない。
と規定されています。これだけ読むと医療類似行為は全て禁止と思う方もいるかもしれませんが、法律は大枠を決めるものであり、具体的に法律がどのように反映されるかに関しては裁判や条例などで細かく決められます。
最高裁判例
医師や鍼灸師などの国家資格が無い人によるマッサージなどの医療類似行為は取り締まるべきか、そうではないのか、については、
『人体に害を及ぼす危険がなければ禁止処罰の対象とならない』
となりました。
最高裁の判決は法律と同等の意味を持ちます。
また、平成16年11月04日の厚生労働委員会では厚生労働副大臣が
法に規定されない医業類似行為については、人の健康に害を及ぼすおそれのある業務に限局して禁止処罰の対象になる
と解答しています。
また、
そのような(もむ、たたくなどの行為)一般的な業務を行うことの表示を禁止することが合理的であるんだろうかというような点を十分に今後考慮していく必要があると、こういうように考えております。
「もみほぐす」という身体ケアが一般的なものであり有資格者のみに独占される必要はないのではないか、という指摘もされています。
簡単に言うと
医者などの有資格者以外の行う医療類似行為は人の健康に害を及ぼすおそれのある場合のみ禁止されます。
事例
平成15年3月に「エーワン」という無資格のマッサージ店が摘発されました。
同店の台帳には「ろっ骨にひびが入った」「首が動かなくなった」など二十四件の苦情が記録されてました。県警の照会に対し厚生労働省は、マッサージの定義を
体重をかけ、対象者が痛みを感じる強さで行う行為
と回答。はじめて「マッサージとは何か?」に定義が示されました。
またこの他の摘発も、「子宮筋腫が小さくなる」という効果をうたったものや電気治療で火傷を負わせた事例、わいせつ容疑や外国人違法滞在などの事例です。
厚生労働省の解答通り、「人に害のない」施術をしている場合の摘発・有罪判決は私の調べた限り見当たりませんでした。
※人に害のない施術で有罪判例となったケースをご存知の方はご一報ください。
そうは言っても法律で明言されていない??
法律とはそもそも、大枠を決めるもので、個々の具体的な事象にどう対応するかは裁判の判例によって決められます。これを理解できず法律の文章が全てだと考えてしまうと「無資格マッサージは違法」と思ってしまうかもしれません。
ですが、繰り返しますが、害のない全うな医療類似行為は法律で禁止されていません。
無資格マッサージを野放しにしていいのか問題
現行法上では全く問題ありませんが、知識がなく危険な行為を行ってしまうケースがある以上、無資格の医療類似行為を野放しにしてはいけないという考えもあるかと思います。私もこれには賛成です。
ですが、古来から行われてきた民間療法を完全に規制することは選択の自由を規制する憲法違反です。国が認めたケア以外は選択の自由がないとなるとこれはもう言論統制と言うべきです。
何が駄目で何がいいか、という議論ではなく、当事者が自由に自分の望むケアを選択できる社会を作るためには、一概に全て駄目というのではなく何が安全で何が危険かを明確にし安全に施術を受けられるインフラを作るべきだと私は考えています。
患者の自由を守るために
現状の論議では、もしも国が認めた身体ケアだけが合法ということになれば、国民の選択権を国家が完全に支配していることになるという視点が見落とされています。
職業や娯楽は自由に選ぶことができるのに、自分の体に関しては国が決めたものしか選べないというのはおかしい理屈です。
もしも今後PTの開業についてや無資格施術について不当な扱いが合った場合、司法の場で国民の判断を仰ぐことも視野にいれていきたいと考えています。
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medical-select-free.hateblo.jp
糖尿病男児を死亡させた祈祷師 医療スタッフの傷つきに注目して
重いⅠ型糖尿病をわずらう7歳の男の子を死亡させたとして祈祷師の男が逮捕されました。もちろん、とんでもないことした祈祷師の責任が一番問われるべきですが、私が気になったのは両親に対する医療従事者たちの冷淡さです。
親に対する厳しい目線
「親に対する教育をもっとしていれば」
「なぜ祈祷師なんかに頼ったんだ」
「もっと親に対して厳しく指導すべきたった」
などと、両親に対しての気持ちを持つことが多いように感じます。
もちろん両親の責任を問うことも必要ですが、それはご本人や世論が考えるべきことであり医療職としてはまず医療のあり方を深く反省する必要があると思います。
なぜ、この子の両親は医療ではなくて祈祷師を選んでしまったのでしょう。あるいは、選ばざるを得ないほど追い詰められてしまったのでしょう。誰かに助けを求めることはできなかったのでしょうか。
おそらく、この子に関わった医療関係者は皆善意で真剣にアドバイスしていたのだと思います。7歳の男の子を殺してやろうなどと考えていたはずがありません。
ですが、
医療スタッフの言葉は両親に届かなかった。
そのことを我々は真摯に受け止めるべきではないでしょうか。
『聴く』ことの大事さ
親に対する教育、指導、という発想ではなくて、親の戸惑いや否認をそのまま受け止める。混乱した気持ちを吐き出して整理できる安全な場所を提供する。そのような受け入れ方をできる医療機関や医療スタッフがどれだけいるでしょう。そもそも、三分間診療で心のケアまで到底手が回らないというハード面での障害もありますし、医療従事者のほとんどが傾聴などの話を聞くスキルを身につけていないというソフト面の障害もあります。
医療従事者は(というより、日本人全員が)混乱した自分の気持ちをただ聞いてもらうことの効果を知らない人が多いように感じます。
「どうして私が」「病気が憎い」「私は病気なんかじゃない」などというネガティブな言葉を聞くと、「もっとがんばれ」「病気を受け入れろ」「もっと重篤な人もいるのだから我慢しろ」などと反射的に反論したくなるのが普通です。そういって反論する人たちは善意なのだと思います。そして、これが日常の会話であればさほど問題にならないのかもしれません。
ですが、無力な患者vs偉い医療従事者 という構図を感じてしまっている人にとって、医療従事者の言葉は時に人生を打ち砕くほど残酷に響くということを、私自身もっと自覚して行動しなければいけないと思いました。
医療スタッフも傷ついている
今後、このような悲しい事件を起こさないようにするためには、誰かを責めているだけではいけません。責めても何も変わらず、むしろさらに追い詰められる人が増えるからです。
病気になったご本人の傷つきのケア、家族の傷つきのケア、患者や家族の気持ちを受け止めるだけの時間的余裕を作ることも非常に大切ですが、ここではまず、ほとんど注目されない点である情報の発信者であり大きな影響力を持つ医療スタッフ側の傷つきもしっかりとケアを考えてみたいとおもいます。
医療スタッフは完璧ではない
医療スタッフも一人の未熟な人間です。ただの人間である以上、病気を持ったご本人や家族の気持ちを完全に受け止め癒すことは不可能です。
なぜ、医療スタッフは患者に厳しい言葉をかけてしまうのか
神様ではなくただの人間が生と死の現場に立てば、当然傷つきます。
医療スタッフは夜勤が多く責任も重いという肉体的な大変さばかりクローズアップされてしまいますが、
「もっとよくしてあげたかった」
「治してあげたかったのに、治せなかった」
「目の前で亡くなっていくのを見ているしかなかった」
という気持ちを日々抱く、精神的に過酷な職場でもあります。この傷つき、やるせなさを抱えたまま患者様と対峙したとき、「もっとがんばるべき」「あなたの病気なんてたいしたことない」という厳しい態度になってしまい患者様を追い詰める原因になっていないでしょうか。
自分の中で未解決の気持ちを抱えたままであれば、今後ハードとソフトが整いじっくりと患者様と向き合える時間の余裕ができたとしても、結局患者様を責めるような言葉しか出てきません。
社会を変えていく前に
脱施設や医療費削減が推進される中、一人ひとりの方としっかり向き合い、様々な人がお互いに支援しあうシステムをつくることは急務です。
ですが、システムを作る前に、作り手である我々の気持ちのケアという視点を加えることで、より軽やかに前向きに活動し賛同者も増えていくのではないかと思います。
長文になりましたが、お読みいただきありがとうございました。
この文章は
藤田が書きました。
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